肥後の石橋 霊台橋

霊台橋ウィキペディアより
概要
単一アーチ式石橋としては日本3位の径間を誇る。1998年行われた調査で、大分県豊後大野市にある轟橋(昭和7年(1934年)架橋)と出會橋(大正14年(1925年)架橋)の方が径間が広い事が分かった。しかし近年の調査であるため、現在でも日本一と紹介されることがある。なお明治以前に完成した石橋の中では日本一である。
緑川水系にはこの他にも同じ町にある二俣橋(ふたまたばし)や山都町にある通潤橋や聖橋・金内橋など多くの石橋がある。
歴史
霊台橋が架けられた場所は、昔の街道である日向往還の一部だったが、船津峡と呼ばれる深い渓谷で緑川の中でも流れの速いところだった。橋が無いころは下流で船渡しを行っていたが雨が降り増水すると使用できなくなり、さらに荷を抱えて渓谷を昇り降りするのは負担で、役所も急用の際は矢に通信文を結び連絡していたほどだった。 文政2年(1819年)より木橋が架けられる
ようになったが再三流失したことから、惣庄屋の篠原善兵衛が二度と流されることの無い石橋の架橋を発案し、自らも出資して種山石工の卯助に建設を依頼した。
卯助は兄弟の宇市、丈八さらに地元の大工・伴七とともに弘化3年(1846年)工事を開始し、翌年の弘化4年(1847年)当時としては前例の無い大きさの石橋を完成させた。 梅雨と台風が来る季節を避けて造られた
ためわずか6-7か月の工事期間であり、参加した大工の数は72人、地元の農民の協力のもと延べ43,967人が工事に参加した。地元の農民の協力で予定より早く工事が終わったことが、中国の古典「孟子」の中の文王霊台建造の話に類似すると考えた篠原善兵衛は、この故事にあやかり「霊台橋」と名付けた。霊台とは物見台の意味である。 しかしあまりの大工事に心労が重なり、卯
助は以後二度と石橋を造らなくなったという。
明治33年(1900年)県道の一部とされた際、石橋の上にさらに石垣を積んで石橋上の道を平らにし、バスやトラックなど大型車を含む車が通れるようにした。昭和27年(1952年)に県道の国道昇格に伴い国道橋となる。昭和41年(1966年)5月、上流側に並行して鉄骨製の新霊台橋が完成し、国道橋としての役目をこれに譲った石橋は自動車の侵入が禁止され観光用の人道橋となった。 その翌年に重要文化財
の指定を受け、昭和55年(1980年)より完成当時の姿に復元する工事が行われ現在に至る。
データ
全長89.86m
道幅5.45m
高さ16.32m
径間(アーチの大きさ)28.4m
架橋時に培われた技術は、30年前に架橋された雄亀滝橋とともに、7年後に完成する通潤橋(国の重要文化財)に応用された。石同士はわずかなの隙間も無い精密な作りである。種山石工の石橋は一般の人々が資金を出し合って造ったため質素で欄干さえない橋が多いが、深い谷に架かっているため、欄干も用意され、土台を流水から守るための補強用の石垣もある。
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