歴史公園鞠智(きくち)城に来ました

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鞠智城は、7世紀後半(約1, 300年前)に大和朝廷が築いた 山城です。 当時、東アジアの政治的情勢 は、非常に緊張していました。日本は、友好国であっ た百済を復興するため援軍を送りましたが、663年の 「白村江の戦い」で、唐と新羅の連合軍に敗北しま した。 このため、事態は急変し、直接日本が戦いの舞台と なる危険が生じました。そこで九州には、太宰府を 守るために大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県)、金 田城(長崎県)が造られました。鞠智城は、これらの 城に食料や武器、兵士などを補給する支援基地でし た。
古代山城から日本初の木簡出土 『木簡は歴史を語る・・・』 貯水池跡は、長者原地区の北西部の谷部にあり、約 5,300平方メートルの広さがあります。木簡や建築 用材などの貴重な遺物が数多く発見されました。 貯水池跡から出土した木簡には「秦人忍□(米?) 五斗」の文字が見えます。秦人の忍という人が米五 斗(当時の1俵)を税金として納めた時の荷札です。 このことから、鞠智城は単なる援軍施設ではなく、 税金などを集める行政的な機能も備えていたと思わ れます。
古代をしのぶ鞠智城のシンボル 『鞠智城温故創生之碑』 平成8年に鞠智城のシンボルとして建てられました。 中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に築城の指 導をしたと思われる百済の貴族、東側に八方ヶ岳に 祈りを捧げる巫女、北側には一対の鳳凰が立ってい ます。 台座には、万葉集からの防人の歌(3首)と、城の歴 史を解説した6枚のレリーフを掲げています。
http://www.kofunkan.pref.kumamoto.jp/kikuchijo/
熊本にもこんな所有るんだね知らなんだ
まだまだカメラもって行くとこいっぱい有りそう

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